首都解放の日
~ベトナムの10月10日~

2016年10月10日公開

日本で10月10日といえば、1964年の東京オリンピック開会式実施日が由来となっている体育の日(現在は10月第2月曜日)にあたりますが、ベトナムの10月10日は 「首都解放の日」。 ベトナム語で 「Ngày giải phóng Thủ đô(ガイザイフォントゥードー)」 と呼ばれています。第一次インドシナ戦争が終結した後の1954年10月10日、フランス軍が首都ハノイから完全撤退し、ベトナム人民軍がハノイに入城しました。約100年にわたるフランス支配が終止符を打った日です。


ハノイに入城するベトナム人民軍

ハノイ市の記念日であるため、ハノイ市民以外にはあまり馴染みがありません。この日にはハノイ市内のあちこちに国旗が掲揚され、節目となる年には祝賀行事が盛大に行われます。 60周年だった2014年には花火が打ち上げられました。 但し、祝日(お休み)にはなりません。
 

首都ハノイ解放までの流れ

南部抗戦の日~ベトナムの9月23日~ の記事で詳しく説明しましたが、1945年の第二次世界大戦終結後、 独立を宣言 したベトナムでは、 再支配を目論むフランスを支援するイギリス軍が進駐 し、またしても戦火が上がります (南部抗戦) 。1946年になってベトナム民主共和国が名実ともに国家としての体制が整うと、フランス連合インドシナ連邦の一国としてベトナム民主共和国の独立が認められましたが、 フランス軍はハノイに無血入城して駐留。 完全独立を目指すベトナムにはとても受け入れられるものではありませんでした。しかも、フランスはプランテーションなど権益の多い南部を手放そうとせず、 南部にフランス傀儡政権コーチシナ共和国を成立させます。

ホー・チ・ミン主席は自らフランスに渡り、独立交渉を続けていましたが、交渉は決裂。ベトナムは、1946年6月に元日本軍将兵を教官としたクァンガイ陸軍中学を設立して将校の育成を始めるなど、独立戦争長期化に備えていきます。

そして、 1946年11月20日のハイフォン港での密輸船取締で銃撃事件が発生したのを発端に、軍事衝突に発展。 12月19日からフランス軍がトンキン・デルタ地帯の各要衝やハノイのホー・チ・ミン官邸など重要施設の襲撃。12月20日にホー・チ・ミン主席が対フランス全面抗戦を宣言し、 第一次インドシナ戦争(1946年12月19日~1954年8月1日、ベトナム名:Chiến tranh Đông Dươngの火蓋が切って落とされました。

この戦争では、 1950年以降アメリカがフランスを支援して軍事介入 します。つまり、ベトナムが南北に分かれ、アメリカが南側を全面的に支援して戦ったベトナム戦争(1955年11月~1975年4月30日、別名第二次インドシナ戦争)はここから始まってとも言えます。隣国では1949年10月に中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国が成立。翌年、中国とソ連がベトナム民主共和国を承認して武器援助を開始しており、アメリカの軍事介入によって、東西冷戦の代理戦争へと発展しました。

長期化した戦争は、 第一次インドシナ戦争中の最大の戦闘「ディエンビエンフーの戦い」(1954年3月13日~5月7日)でベトナム側が勝利 したことで、7月21日の休戦協定(ジュネーブ協定)締結と、インドシナ半島からのフランスの全面撤退へとつながっていきます。


ディエンビエンフーで勝利し旗を振るベトナム兵

ジュネーブ協定を受けて、7年に及ぶ血みどろの戦いが終結し、フランス軍が駐留し支配していた首都ハノイをベトナム側に引き渡すことが決まりました。ベトナム政府は、ベトナム人民軍の第308号師団にハノイの治安維持を命じます。


ロンビエン橋を渡りハノイを後にするフランス最後の部隊

10月10日、フランス軍の最後の部隊が完全撤退するのと入れ替わりに、ベトナム人民軍大308号師団が首都ハノイに入城。 市民はベトナム国旗を掲げ、熱烈に歓迎しました。


人民軍入城を歓迎するハノイ市民


人民軍入城を歓迎するハノイ市民


花束を持って兵士を迎える女性たち
 

そして南北分断

首都ハノイを取り戻したベトナムですが、これは南北分断が決定的になった瞬間でもありました。フランスは第一次インドシナ戦争中の1948年6月、南部のコーチシナ共和国を廃し、1949年6月に旧阮朝のバオ・ダイを国家主席とするベトナム国(1949~1955年)を成立させていました。そのため ジュネーブ協定では、北を支配するベトナム民主共和国と南を支配するベトナム国との間、北緯17度線に沿って幅10kmの非武装地帯(DMZ)を設けることが決めらます。

これはあくまでも「暫定的な軍事境界線」とされ、1956年7月に自由選挙を実施して南北統一国家を樹立することを定めていました。しかし、協定を調印したのはフランスと北ベトナム(ベトナム民主共和国)のみで、アメリカと南ベトナム(ベトナム国)は調印を拒否します。もし選挙をすればホー・チ・ミン主席が圧倒的な勝利をおさめると考えていたからと言われれています。そのため、 統一選挙が行われることはなく、北緯17度線は実質的な国境線となってしまいました。

そして、北側にいたベトナム人も一枚岩ではありませんでした。 ジュネーブ休戦協定では、締結の日から1955年5月18日までの300日間、猶予期間を設けてその間は南北ベトナムを自由に行き来できるようにし、その後境界線を閉じることが合意されていました。 その間、南からは 1 万 4000~4 万 5000 人の市民と約 10 万人のベトミン兵士が北へ移動、 北からは北ベトナムの総人口1300万のうち60 万~100 万人もの人々が共産主義支配を逃れて南へ移動した と言われています。

アメリカ海軍は「自由への道作戦 (Operation Passage to Freedom)」作戦を実施し、約31万人を北から南へ移送しました。これとは別にフランス軍も約51万人を移送してます。ベトナム語では「Cuộc di cư năm 1954(1954年の移住)」と呼ばれていています。ホーチミン市郊外地域にカトリック信者が集まって住んでいる場所が多いのは、このときに共産主義支配による迫害を恐れたカトリック信者が移住してきたためです。今でも南部では、ベトナム戦争終結(1975年)後に南に移住した北部人と区別するため、「1954年に移住した北部人」という言い方をします。


米軍の「自由への道」作戦で北を脱出する人々

 
首都をベトナム人の手に取り戻したとはいえ、国家が分断してしまったベトナム。その後も統一国家樹立を目指した武力闘争が続き、同じ民族が南北に分かれて戦うベトナム戦争へと突入していきます。
 
 
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